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宝当神社の歴史が凄すぎる

宝当神社宝当神社といえば宝くじが当たる!と一気に有名になった神社ですが、宝当神社はもともと神様が祀られた神社ですから、観光スポットのひとつとして物見遊山で行くというよりは、やはり神様に敬意を表し「参拝」をしたいところです。

宝当神社の歴史は古く、1586年、天正13年がその始まりだといわれています。ちょうど日本では安土桃山時代といわれる時代で、豊臣秀吉が刀狩令を出したころですね。

宝当神社の祭神は、野崎隠岐守綱吉です。のざき おきのかみ つなよしと読みます。彼は1554年、天文23年の生まれです。

1554年というと、日本では戦国時代に当たります。織田信長が室町幕府を倒す前の事だと言えば、その歴史の古さがなんとなく実感できるのではないかと思います。

つまり、まだ織田信長が生きている頃にご祭神となる綱吉が生まれ、豊臣秀吉が手腕を奮っている頃に祠が建てられた、という事になるのですね。とても由緒正しい神社だという事がわかります。

綱吉は、信州の諏訪の国に生まれます。信州の諏訪の国とは長野県のあたりですね。そんなに遠くに生まれた方が、どうして宝当神社の祭神となったのでしょうか。

綱吉が12歳の時、才能豊かで勇気と大きな力を持っていただけではなく、非常に憐れみ深い心と礼儀の心を持ち合わせていたことから、肥後国豊後、つまり現在の九州は熊本県や大分県のあたりの大友義鎮公に仕えました。

様々な功績を遺した後、肥前国、今の長崎県や佐賀県にあたる地方の城主として草野鎮永に迎えられます。この辺りで、綱吉は高島にほど近い場所まで来ていたという事になりますね。

さて1574年、綱吉の城である草野城が龍造寺隆信率いる54000騎に取り囲まれてしまいます。しかし、なんと綱吉は前線で戦い、龍造寺を打ち破ってしまうのです。

ですが、強すぎる綱吉を恐れ、また武勇を立てた事への妬みから、なんと草野城の老臣らが綱吉を城から追い出してしまうのです。強すぎることで人の恨みを買ってしまうというのは、今の世でも見られることですよね。

ですがこれをきっかけとして、綱吉は高島へと移り住むことになります。ある冬の日、高島の民家が海賊による穀物や金銭の強奪に遭ってしまうのですが、綱吉がこれを成敗します。

高島から船で強奪品を持ち去ろうとしたところを浜辺で引き止め、なんと5名を残して全て倒してしまうのですから、さすが綱吉ですよね。

しかも、生き残った5人の海賊を諭し許してしまうのですから、憐れみ深い心は高島にいる頃まで無くさず持っていたという事になります。

1586年夏の日に、綱吉は高島にて逝去します。その若さ32歳というのですから、現代で考えると若すぎる死だと言わざるを得ません。

当然高島の島民は綱吉を手厚く弔い、祠を建立します。その後時は移り変わり、明治の時代に入ったころ、製塩業で大きな利益を上げた高島の人々は、綱吉がいたからこそ今の高島があると感謝の気持ちで、祀られている神社に鳥居を奉納します。

その鳥居には「この神社は高島の宝だ」という島民の思いが込められた「寶當神社」の文字が記されているため、宝当神社と呼ばれるようになったんですよ。

綱吉の強い力と大きな暖かい心で、高島は今も守られているのです。今は宝当神社の祭神として、頼ってくるものを受け入れているのだと言えますね。